東京地方裁判所 昭和54年(行ク)43号 決定 1979年7月03日
申立人
菊田昇
右訴訟代理人
佐藤義行
外六名
被申立人
厚生大臣
右指定代理人
小沢義彦
外六名
主文
被申立人が申立人に対してした昭和五四年六月八日付厚生省発医第八九号による昭和五四年六月一五日から同年一二月一四日までの期間、医業の停止を命ずる旨の処分は、本案判決確定に至るまでその効力を停止する。
申立費用は被申立人の負担とする。
理由
一本件申立ての趣旨及び理由は別紙(一)ないし(四)記載のとおりであり、これに対する被申立人の意見は別紙(五)、(六)記載のとおりである。
二疎明によれば、申立人は昭和二五年医師免許を取得して以来、産科、婦人科及び肛門科を専門とする医療業務に従事して来た者であるが、かねてから、妊娠七か月以降となつてなお人工妊娠中絶を希望する妊婦に出産をすすめ、出生した新生児を、養育を希望する他人にその実子として出生証明書を交付するという、いわゆる実子斡旋行為を行なつていたところ、これが昭和四八年大々的に報道されたため、社会に大きな反響を呼び起こし、これに対し愛知県産婦人科医会の会長山原秀から昭和五二年八月告発がなされたことから、申立人のいわゆる実子斡旋行為は医師法第二〇条及び第三三条並びに刑法第一五七条第一項及び第一五八条第一項に触れるものとし仙台簡易裁判所に公訴提起、略式命令の請求をされ、昭和五三年三月一日罰金二〇万円の言渡しを受け、右裁判は正式裁判に移行することなく確定したこと、その後被申立人は申立人が罰金刑に処せられたことをもつて医師法第七条第二項に該当するものとし、医道審議会の議を経て主文掲記の医業停止処分(以下「本件処分」という。)をしたことが認められる。
三そこで本件処分により回復の困難な損害が発生し、かつこれを避けるため緊急の必要があるか否かにつき検討する。
疎明によれば、申立人は昭和三三年以来肩書住所地において診療所を開業し、現在の規模は医師一名(申立人)、看護婦五名、事務員二名、掃除賄婦三名を擁し、また家族構成は妻のほか、近畿大学医学部三年の長男、松本歯科大学三年の次男及び高校二年の三男をかかえていること、申立人は昭和五二年看護婦宿舎の建築及び二人の息子の入学金の調達等のため合計金七五〇〇万円を銀行から借受け、逐次返済して来たものの、昭和五四年六月九日現在の債務は四七四〇万円にのぼり、その返済として月額元利合計一二〇万円近い支払を要し、更に経常的費用として看護婦等従業員九名(申立人の妻を除く。)に対する給料月額一〇〇万円程度及び長男、次男への仕送りを含む生活費として月額七〇万円程度の支払が見込まれる他、昭和五四年七月二三日には申立人振出の額面八〇〇万円の約束手形の決済が予定されているところ、これらの支払に充当される資産は昭和五四年六月九日現在の銀行預金約二四〇万円と申立人の診療収入による以外は他に適切な支払資金を有しないことが一応認められる。
ところで申立人は本件処分により一切の医業が禁止されたため、従来どおりの診療所運営を維持するためには他に代替医師を求める他ないものであるが、現在のところ義父である秋田県大曲市在住の鈴木医師が申立人の医業を引き継いでいるものの、右鈴木医師は既に七五才の高齢であるうえその専門は肛門科及び耳鼻科であるため、申立人に代替するには相当の無理があるのみならず、長期に及ぶ代替は困難といわざるを得ないし、申立人がいわゆる実子斡旋の行為を継続して来た等の理由により既に日本母性保護医協会及び日本産科婦人科学会宮城地方部会を除名されるなど、産婦人科医の中にあつて孤立の状態にあることがうかがわれ、かかる特殊事情を考慮すると、他の代替医師を探すことも事実上困難であると一応認められる。
そうすると申立人は本件処分により医業を停止されると、看護婦等の従業員の解雇或いは診療所施設等の処分を余儀なくされる状況に陥る可能性があるものと推認されるが、かくては仮に本案において本件処分が取消されたとしても従前どおり診療所を再開することは困難であると認めるべく、かかる損害の発生は行政事件訴訟法第二五条第二項にいう「回復の困難な損害を避けるため緊急の必要があるとき」に該当するものと解するのが相当である。
なお付言するに、被申立人は申立人所有不動産には極度額一億円の根抵当権が設定されているところ、昭和五四年六月九日現在の借入額は四七四〇万円にすぎず、また、そのほかにも抵当物件となつていない申立人所有の不動産が存在し、しかも申立人が六か月後に医業を再開することは確実であるから資金調達は容易である旨主張するが、前記のとおり申立人の預貯金が乏しいことや医業停止に随伴する障害のため今後の返済見込が不安定となつている点等を考慮すると、右根抵当権設定ないし抵当物件となし得る不動産の存在の一事をもつて、資金調達が容易であるとはいえず、他にこれを肯定するに足りる疎明もない。
四次に本案についての理由の有無につき検討するに、疎明によれば、本件処分は申立人が罰金二〇万円に処せられたことが医師法第四条第二号に該当するものとして同法第七条第二項により処分されたものであるが、右罰金刑に処せられた公訴事実自体は申立人の認めるところであり、申立人の行為は出生した嬰児の母胎を偽るというものであるから、その行為は社会の基本的関係の一つである母胎との関連を最も正確に証明すべき出生証明書に寄せる社会的信頼を動揺させ、右基本的関係に混乱を生ぜしめる虞れがあるもので、当該嬰児の法的地位を不安定なものにするのみならず、将来近親婚の可能性等優生学上の問題をも惹起しかねないことを考慮すると申立人の行為は必ずしも軽視することはできないというべきであるが、一方申立人がこのような真実に反する出生証明書を作成するに至つた動機が営利等不純な目的に出たものではなく、もつぱら母親の意図する人工妊娠中絶により失われるべき胎児の生命を救わんとする点にあつたこと等従来の破廉恥罪等を処分理由とする同種処分と同列に論じ得ない側面を有していることを考慮すると、本件処分につき被申立人にある程度の裁量が認められているにしても、前記事情から直ちに本案につき理由なしと断定することはできないのであつて、本件処分に至る裁量判断の適否につきさらに慎重なる審理を要するものと判断されるのである。従つて、本案について理由がないとみえるとする被申立人の主張は採用できない。
五更に進んで本件処分の執行を停止することが公共の福祉に重大な影響を及ぼすか否かにつき検討するに、被申立人は本件処分の効力が停止されるならば、再び申立人によつていわゆる実子斡旋行為がくり返され、これにより公共の福祉に重大な影響が生ずるものと主張し、疎明資料中にも申立人においてそのような意思を有するかのようにみられるものが存在するけれども、申立人が当裁判所に提出した上申書によれば、申立人は昭和五二年八月以降は同種行為を行つておらず、又いわゆる実子特例法の制定を含め前記人工妊娠中絶に関する問題の解決に努力する意思に変わりはないがその方法としてのいわゆる実子斡旋については既に前記刑事判決に服した以上再度そのような行為に出ることは考えていない旨表明しているのであるから、被申立人主張のような事態が発生する可能性はないものと一応認められるので被申立人の右主張は採用できず、他に本件処分の効力停止により公共の福祉に重大な影響を及ぼすことをうかがうに足る疎明はない。
六そうすると本件申立は理由があるから、これを認容し申立費用につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり決定する。
(藤田耕三 原健三郎 田中信義)
別紙(一)〜(四)請求の趣旨及び理由<省略>
別紙(五)、(六)被申立人の意見<省略>